
金融システムの安定性と維持は、国力や国際競争力であるばかりでなく、公共財としての重要性が認識されております。
それ故に、市場関係者の間で、非常時対応の必要性が共有され、監督官庁も金融機関や市場に対し、いわゆる、BCP:Business Continuity Plan、事業継続計画の策定を指導しております。
それは、自然災害、事故、テロなどの緊急事態が発生した際に、事業への損害を最小限に抑えつつ、中核事業の継続や早期復旧を可能にし、従業員や顧客の安全を確保し、市場や企業への信頼を維持・向上させるための必須条件でしょう。
私は香港駐在中に、香港の監督機関や日本の金融庁のガイドラインを参考にしながら、BCPの策定とその演習に腐心したものです。
その主要な項目はこのようにまとめられます。
日本ではBCP策定に際し、最も想定される事態は地震ですが、香港では地震がほとんど無いこともあり*、台風や火災、9.11以降はテロ、といった事態を念頭に策定しました。
香港現地法人でBCPが発令されたのは、21世紀の感染症として猛威を振るった、重症急性呼吸器症候群:SARS、通称サーズが契機となりました。
2002年11月に広東省で発生した重症急性呼吸器症候群:SARSは、翌年2月に感染地の広州市から親族の祝宴にかけつけた医師により香港にもたらされたとされる。同医師の宿泊したホテルから感染者が続発し、そのうちの1人が入院したプリンス・オブ・ウェールズ病院で、医療関係者、入院患者、見舞客など100名以上の集団感染が発生した。さらに、その外来透析患者の1人が高層団地群の淘大花園(アモイガーデンズ)アパートE棟を訪れたことから、団地全体で感染者321名、死者42名の惨劇となった。6月23日に世界保健機構(WHO)が感染地から除外するまで、香港では1,755名が罹患し299名が死亡した。感染が終息するまでに、計4カ月を要した。
【JETRO、地域分析・レポート『(中国・潮流)SARSを踏まえた香港の新型コロナウイルス対策』より】思いがけない事態でBCPが発動され、また、内外の人的往来が遮断され、孤立無援といったところでの業務継続は、なかなかスリリングな体験でした。
欧米の金融機関では、サーズの流行以前に中国南部で謎の病気が蔓延しているとの情報から、いち早く家族を本国に返す措置をとりましたが、日系の金融機関はワンテンポ遅れていた記憶があります。
欧米の金融機関が独自にWHOとの情報パイプを持っていたのか、あるいはアジアでの医療体制に不信を抱いていたのか、真相は不明です。
遅ればせながら、家族を日本に返した日系企業の駐在員が、香港の繁華街で羽を伸ばす姿は、いささか悲哀に満ちたものでした。
さて、私は阪神・淡路大震災と東日本大震災という、日本を揺るがした未曽有の大地震を、香港駐在中に目撃することになりました。
無論、発生直後には出張中の従業員の安全確認、駐在員の家族の安否確認に集中しておりました。
阪神・淡路大震災の折にはインターネット前夜の時代で、オフィスのQUICK端末を叩くたびに犠牲者の数が増えていく様子に慄然といたしました。
若い金融人諸氏には、何のことか理解できないもしれませんが、株価やニュースのリアルタイム確認にはQUICK社の卓上端末が主流だった時代、その画面は自動更新されず、いちいちキーを叩いてアップデートする必要があったものです。
東日本大震災では、それとは全く異なった光景が展開されました。
BBC やNHKの衛星放送、さらにはネット映像は、地震で発生した津波に人や車がのみ込まれるさまが同時中継されるという凄惨なものでした。
そんな状況の中、週明けには東京本社在勤であるはずの外国人スタッフが多数、香港に避難してくるという事態に現場は混乱します。
それは本社におけるプロダクト毎のBCPがありながら、香港現地のBCPと事前すり合わせが充分でなかったことが混乱に拍車を掛けた原因でしょう。
さて、政府の発表している地震の長期予測*では、南海トラフ地震や首都直下地震の発生がかなり高い確率で予想されており、日本海溝や千島海溝で地震が発生した場合の影響などが報告されております。
*地震調査研究推進本部の紹介
平成7年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の経験を活かし地震に関する調査研究の成果を社会に伝え、政府として一元的に推進するために設置された特別の機関です。
日本の地震予知研究の第一人者、長尾年恭 東海大学客員教授によると、関東大震災、阪神・淡路大震災、東日本大震災、能登半島地震が、近代日本における巨大地震と目されているようです。
長尾 年恭(ながお としやす)
兜町の古老の記録では、1923年9月1日(土)に発生した関東大震災は、このように記憶されております。
東京株式取引所の建物も全焼し、兜町一帯が焼野原となった中、10月27日から焼け跡の天幕内で株式の現物取引を開始しました。その後、株式市場は回復し、兜町はすっかり近代的な街並みに生まれ変わりました。
東京株式市場は一時閉鎖、震災直後の混乱で株価は急落したが、復興特需により数年で持ち直した様子です。
時代は、東京市場が国際的な投資家を呼び込むどころか、単なるローカル市場に過ぎないものでしたので、市場の閉鎖が国際金融市場に影響を与えることはありませんでした。
それでは、それ以降の巨大地震の影響はどのようなものでしょうか?
この三つのケースをまとめると、大地震発生後の市場には次のような傾向がうかがえます。
さて、この歌は、関東大震災の震災復興事業に奔走した京都生まれの女流歌人、九条武子のもので、この句を刻んだ歌碑が東京、築地本願寺の境内にあります。

本願寺派布教使の田坂亜紀子氏によると、本句は自分を奮い立たせしっかりと生きているようでも、自らの力ではどうにもならない出来事を目の当たりにした時に、そうはできない自分を思い知らされることがある、と解かれております。
確実にやってくる大地震への心の備え、できていますか?
<参考>
[ 2025.10.31 ]
[執筆者プロフィール]
一燈。1980年大手証券会社入社。企業派遣留学として米国でMBA取得。その後、シンガポール・香港駐在を通じアジアビジネスに、 また本社経営企画部門で経営戦略の立案等に関わる。