コラム

雑感:日系証券会社のアジア・・・香港、シンガポールの駐在体験から



目次
  1. 戦後の外国投資家による日本株投資のあゆみ
    ●1950年代~1960年代:戦後復興と初期の外国資本参入
    ●1970年代:オイルショックと外資の拡大
    ●1980年代:バブル景気と外国投資家の日本株買いの急増
    ●1990年代:バブル崩壊と外国資本の再評価
    ●2000年代~2010年代:金融危機後の復興
    ●現在:世界的投資資金の拡大
  2. 1980年代、駆け出し社員がみた海外投資家の動き
    1.ニューマネーの勃興
    2.海外投資家の求める流動性
    3.本邦証券会社の熱気
  3. 1980年代、日系証券会社のアジアでの業務
    ●日本からの輸出業務
    ●日本への輸入業務
    ●クロスボーダー業務
    ●商品組成業務
    ●附帯業務
  4. アジアでの日々(駐在雑感)
    1.1980年代、アジアの国際金融都市(シンガポール、香港の記憶)
    2.中華系投資家の信ずるモノは?

Ⅰ.戦後の外国投資家による日本株投資のあゆみ

戦後、取引所再開後の外国投資家による日本株買いの歴史は、日本の経済成長、金融自由化、世界経済の動向などの影響を受け、いくつかの大きな転機を経て進展してきました。

  • 1950年代~1960年代:戦後復興と初期の外国資本参入
    復興期の日本は国内産業保護を名目に、外国企業の資本参入を制限していました。しかしながら、経済成長とともに、外資導入の必要性が高まり、1960年代には法改正が進み、外国企業の日本株保有が段階的に認められるようになりました。

  • 1970年代:オイルショックと外資の拡大
    1971年に外貨取引の自由化が進み、外国投資家が日本株を購入しやすくなったため、欧米からの投資が増加しました。その後、1973年の第一次オイルショックにより日本経済は困難な局面を迎えましたが、外国資本に対する門戸開放は徐々に進みました。ただし、この時期の日本の資本市場は依然として規制が多く、外資の影響力は限定的でした。

  • 1980年代:バブル景気と外国投資家の日本株買いの急増
    1980年代は日本経済が高度成長期からバブル経済へと移行し、株価も急上昇した時期でした。日本政府は金融自由化をさらに進め、加えて1985年の「プラザ合意」以降の円高トレンドもあり、外国投資家による日本株買いは急増しました。海外の大手投資銀行やファンドも日本市場に参入し、1980年代後半には日本の株式市場における外国投資家の比率は大幅に上昇しました。

  • 1990年代:バブル崩壊と外国資本の再評価
    1990年代初頭にバブル経済が崩壊し、日本の株価は急落しましたが、外国投資家は日本市場に注目を続けました。バブル崩壊後、日本企業が構造改革を進める中で、一部の外国資本はリストラや企業統治の改善などを求め、日本企業の株主価値向上に関与しました。この時期、特に米国の機関投資家やヘッジファンドが日本株市場で影響力を強めました。

  • 2000年代~2010年代:金融危機後の復興
    2000年代に入ると、外国資本の存在感はさらに高まりました。2008年のリーマン・ショックで一時的に投資の流出が見られたものの、その後の復興とともに外国投資家が徐々に日本株市場に戻りました。特に2012年以降の金融緩和政策により、キャリー・トレード等が活発になり、外国投資家の存在感は増してゆくことになります。

  • 現在:世界的投資資金の拡大
    2020年代に入ると、政府も後押しする、企業のガバナンス強化や株主還元が進み、持続可能性やESG投資への関心も高まり、外国投資家の存在は依然として日本株市場に大きな影響を及ぼしています。特に世界的な投資資金の膨張は、コロナ禍で一端は頓挫したものの、その後の回復過程で日本株に向かう資金も増加している様子です。

Ⅱ.1980年、駆け出しが見た海外投資家の動き

さて、1980年4月、この世界に身を投じた私は地方支店勤務、海外留学を経て、1987年、ようやくシンガポールの地に赴任いたしますが、個人的に80年代の海外投資家をめぐる動きで記憶に残っているのは下記の三点です。

  1. ニューマネーの勃興

    オイルマネー、ソブリン・ウェルス・ファンド等々、想像がつかないほどの、新しい巨額のお金が世界を駆け巡っている事実に、日本市場は湧きました。

    例えば、当時のOPEC傘下の運用資金は2,360億米ドル、同時期の為替レート240円/米ドルからみると57兆円、それは1980年末における東証一部の時価総額732億円と比較すると、いつでも全ての日本企業を支配できるだけの気の遠くなるような巨額の資金でした。

    (経済企画庁年次世界経済報告:石油危機への対応と1980年代の課題 昭和55年12月9日より)

    日本国内の地方支店、その営業現場でもSAMA:サウジアラビア通貨庁、ADIA:アブダビ投資庁GIC:シンガポール政府投資公社、といった機関投資家の名前が符丁のように交わされておりました。

  2. 海外投資家の求める流動性
    1980年代前半、日本経済の高度成長が続き、本邦の機関投資家も、安定した経済成長と株価上昇を経験して、株式への投資を拡大、1980年代後半には低金利政策と企業への融資増加を背景に、株式市場に積極的に参入しバブル景気を牽引しました。この様な日本国内の機関投資家の市場参加が、大きな取引を求める外国投資家に流動性を提供してゆきます。

  3. 本邦証券会社の熱気

    このような外部環境から、1980年代には証券大手を先頭として、その国際業務を急拡大させて行きます。

    その熱気は証券大手各社の社史にも記録が残されており、現在でも、追体験できるようです。

野村證券
第4節 グローバル化が進展
1.海外展開の戦略組織を構築
■グローバリゼーションに対応
1980年代後半、証券・金融の国際化と各国金融資本市場の同質化の進行に伴い、内外の証券・金融機関の競争が激化していたが、当社はそれに戦略的に対応するため、1987(昭和62)年6月に、グローバリゼーションのための新たな体制の確立を目指して、プロジェクトをスタートさせた。

山一証券
3.海外部門の活動
■海外部門営業収入の動向
1980年代前半に、海外拠点の拡大・強化を積極的に進めて来た山一証券は「グローバルな総合金融会社」を目指す第2次中期経営計画のもとで、1985(昭和60)年3月に国際本部を海外営業本部と改称し、国際金融部を引受本部に移管し、内外一体化戦略のもとで国際営業を展開していく。

大和証券
第十四節 国際化の一層の進展と当社の業務展開
一 内外の一体化
昭和五十年代後半は、証券市場の国際化が一層進展した時代であった。五十五年の改正外為法の施行により資本の自由化がほぼ実現したことは前述したが、この結果、外国投資家による国内証券売買、外国発行体による国内での証券発行、国内投資家による外国証券売買、国内発行体による海外での証券発行は、いずれもその規模を著しく拡大した。

Ⅲ.1980年代、日系証券会社のアジアでの業務

アジア地域、主力の拠点は香港・シンガポールという二大国際金融都市ですが、当時の日系証券会社が携わった業務は、簡単にまとめてみると、次のように区分できます。

  • 日本からの輸出業務
    日本株や日本国債等の日本円建て証券を、現地の機関投資家や中華系を中心とする富裕層へ販売する輸出業務

  • 日本への輸入業務

    現地で発行された各種証券を日本国内の投資家に販売する輸入業務

    シンガポールでは1984年に開設されたSIMEX:Singapore International Monetary Exchange、シンガポール国際金融取引所で取引される日経平均先物や金利先物が日本の機関投資家の需要に応えました。

  • クロスボーダー業務
    現地で組成された証券を欧米等、グローバルに販売

  • 商品組成業務
    投資銀行部門の活動として現地政府、企業の株式・債券発行、カントリ―・ファンドの組成、現地企業の東証上場への勧誘等々

  • 附帯業務
    1. 有価証券管理業務(カストディアン業務)
      一般的に投資家が国外の有価証券に投資する際に、購入した証券を輸送して本国で保管することは、輸送の費用・日数、保険に関する問題、資本規制等もあり難しいため、現地のカストディアンを利用するのが一般的です。日系証券は日本株投資家のために、カストディアン・サービスを提供しておりました。

    2. 銀行業務

      日系の大手証券は香港、シンガポールで銀行業務の免許を保有しておりました。香港では預金、為替、融資のフルライセンスを、シンガポールでは現地通貨シンガポール・ドル以外のオフショア取引、ACU(Asia Currency Unit)と呼ばれる非居住者外貨資金勘定を認可されていました。

      銀行業務により、現地投資家が保有する投資口座の滞留資金に金利付与、信用取引の融資が可能となりました。

実際には80年代の日系証券の収益構造は圧倒的に輸出業に傾斜しておりましたが、1980年代後半から1990年代にかけて、日本の投資家によるアジア新興市場への注目が集まりました。

日本経済が成熟する中で、東南アジア諸国の急成長、低賃金労働力の活用、経済のグローバル化の恩恵を受け成長の余地が大きいアジアの新興市場へ関心が高まったのです。

しかしながら、1997年のアジア通貨危機により、多くの投資が影響を受け、ブームは一時的に後退しましたが、アジア市場の成長ポテンシャルは高く、現在も多くの投資が続いています。

Ⅳ.アジアでの日々(駐在雑感)

  1. 1980年代、アジアの国際金融都市(シンガポール、香港の記憶)
    シンガポールの玄関口、チャンギ国際空港は薄暗く、ゲートを出た瞬間に漂うローカルフードの匂い、タクシー乗り場で感じたまとわりつくような南国の熱気、ボロボロのタクシーで宿泊先へ向かう高速道路の両側に広がる熱帯の暗闇、突然目の前に登場する摩天楼・・・・

    (シンガポール1985年)
    香港の旧啓徳空港に着陸する航空機は、超低空飛行で右旋回しながら降下し、翼下の老朽アパートの住人が洗濯物を干す様子もはっきり見え、空港ゲートを出ると何とも言えない中華食材が混じりあった匂い、湿った重い空気、日系企業のネオンサインが並ぶ高層ビル群、譲り合おうとしない車両ばかりで慢性的な渋滞を引き起こす海底トンネル・・・

    (香港1985年)

    どちらも赴任時の印象で、典型的な東南アジアの都市の様子ですが、現在とは隔世の感があります。

    赴任時はアジア経済危機以前でしたので、どちらの都市でも日本の金融機関は、長信銀、都市銀行、信託銀行、地方銀行、大手証券会社、中堅証券会社等々、ひしめき合うような状況でした。

    その駐在員各位と顧客先、監督官庁、弁護士事務所、会計事務所、さらには接待先の夜の街でと顔をあわせるわけですので、情報収集には細心の注意を払いました。

    また、当時は外資への門戸が開かれていなかった近隣諸国、インドネシア、マレーシア、フィリピン等々の顧客開拓にあたっても、競合他社とぶつかり合ったものです。


  2. 中華系投資家の信ずるモノは?

    そんな中で面談する中華系投資家の行動で記憶に残るものが彼らの米ドル信仰でした。日本株の売買決済は当然、日本円で執行されますが、彼らは多くの場合、欧米の銀行から米ドルで資金を振り込んで来ました。

    業者としては為替スプレッドも抜けるので有難い事ですが、彼らにその意図を聞いてみると、いざというときに信頼できる通貨で資産を保全したいので米ドルを選ぶ、どのような国で投資機会が発生しても米ドルなら迅速に投資が出来る、米ドルならば決済の事故の可能性が少ない、と即座に披露してくれたものです。

    東南アジアの華僑系投資家は第二次世界大戦前後に故郷を後にし、親戚や同郷者の暮らす国に落ち着き、日系企業のエージェントや日系商社との取引で財産を築いた方々も多く、その情報収集力もさることながら、投資決断も素早いものでした。

    国を出た後の苦労話、さまざまな冒険譚、移住先での政治的迫害等のお話を伺えば伺うほど、その米ドル信仰の強さが浮かび上がってきたものです。

    1990年代には、そろそろ世代交代の時期にあたり、華僑二世の方々ともお話しする機会も増え、欧米で教育を受けたこの世代の、日本人とは異なるグローバルな視点に驚かされたのも強く記憶に残るものです。

<参考>

  • 経済企画庁年次世界経済報告:石油危機への対応と1980年代の課題 昭和55年12月9日
  • 野村證券史 1986-2005
  • 山一証券 100年史
  • 大和証券百年史
  • Bloomberg
  • 日本取引所グループ
  • 日本経済新聞

[2024.10.31 ]

[執筆者プロフィール]
一燈。1980年大手証券会社入社。企業派遣留学として米国でMBA取得。その後、シンガポール・香港駐在を通じアジアビジネスに、 また本社経営企画部門で経営戦略の立案等に関わる。


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