ジャパン・ソサエティでの田淵会長を囲むディナーには、三十人のアメリカのトップエクゼクティブたちが集まってきた。すぐそばに新しくできた日本料理屋から幕の内弁当が届けられ、各人の前に置いてある。キリンビールの中びん一本とコップが一つ添えてある。ぼくも去年の暮れまで、ここの理事だったが、これがジャパン・ソサエティのディナーのやり方だ。
いつものたくましい日焼けした顔を、がっしりした体に乗せて、シュライヤー氏は会長の横で幕の内弁当を食べている。やはり、彼は来た。
誰かが田淵会長へともシュライヤー氏へともとれる質問をした。
「この暴落をどう思いますか」
田淵会長が言った。
「隣にいるシュライヤーさんと私は、証券界に入ってもう四十年にもなります。あるんですよ、こういうアップ・アンド・ダウンは」
「そうなんです、ただ、この五年間上げ相場だったから、下げ相場を体験したことのないウォール街の若い人たちは、びっくりしたでしょう。」
といってシュライヤー氏がうなずく。
寺澤芳男 著
「ウォール・ストリートの風」より
1987年10月19日(月曜日)、ニューヨーク証券取引所のダウ平均株価が大暴落した「ブラック・マンデー:Black Monday」、現地では「血まみれの月曜日:Bloody Monday」とも称されたようですが、まさにその当日、ニューヨークにおける一場面です。
登場人物は、業界で大田淵と呼ばれた田淵 節也、野村證券会長(現・野村ホールディングス)、ウィリアム・シュライヤー:William Allen Schreyer、メリルリンチ会長(現・メリル)、語り手は野村證券の国際部門を率いておりました寺澤芳男、同社副社長。
*肩書は全て当時のもの
翌日、大暴落した東京証券取引所、“下げ相場を体験したことのない”若き証券マンだった私は、本社の営業場に設置された株価ボードに点滅する売り気配ばかりの表示を恐怖と不安で呆然と見上げるばかりでした。
あの日から、様々な暴落や金融危機を体験しましたが、業界の先達のようには肝が据わらないまま、常に右往左往していた私です。
そんな反省もあり、1980年代以降の世界的な金融危機、銀行システムの崩壊、バブルの崩壊、通貨危機など、様々な形で発生した事象を振り返り、その教訓を探ってみましょう。
【背景】
1970年代の石油危機によりオイル・マネーが急膨張し、ラテン・アメリカ諸国への貸付が拡大して、この地域の多くの国が積極的に資金を借り入れ、経済開発を進めました。
しかしながら、石油価格の低下やドル金利の急上昇により財政が悪化、通貨の下落と輸出収入の低迷が追い打ちをかけ、債務の返済が不可能となりました。
【結果】
多くのラテン・アメリカ諸国が債務不履行に陥り、地域全体が長期にわたる経済不況に苦しみました。
国際通貨基金:IMFと世界銀行が救済措置として、債務再編や構造改革プログラムを支援しました。
【教訓】
身の丈に合わない過剰な外部借入と、通貨が不安定な状況での外貨建て債務の拡大は、経済危機を引き起こしやすいものでした。
IMFが債務不履行諸国に課した「構造調整プログラム」による財政緊縮が国民生活を苦しめ、外資導入への慎重なアプローチの必要性が新興国に広がりました。
個人的には、このラテン・アメリカの債務危機は同時代的な出来事というより、その後の処理として発行されたブレディー債に苦労したことばかりが思い出されます。
それは1989年、当時の米国ブレディー財務長官:Nicholas Frederick Bradyによる提案に基づきラテン・アメリカ諸国の債務返済を目的として米国市場やユーロ市場等の国際市場で発行された債券の総称で、その条件の複雑さに四苦八苦した体験です。
【背景】
1987年10月19日(月曜日)、ニューヨーク証券取引所のダウ平均株価が一日で約22.6%下落しました。この米国発の「ブラック・マンデー」は、世界の株式市場にパニックを引き起こし、各国で株価が大幅に下落しました。
【結果】
コンピュータによる自動売買、いわゆるプログラム売買により、相場が下落すると、さらに売り注文が増えるという悪循環が発生し、 投資家の疑心暗鬼と悲観からパニック売りが加速しました。
【教訓】
金融市場における自動取引のリスクが露呈し、その後の市場規制強化や取引停止措置:サーキット・ブレーカーの導入に繋がりました。
金融市場のボラティリティが一気に高まると、システム的なリスクが広がることが明確になり、金融機関のリスク管理が重要視されるようになりました。
私自身、市場の一時的なシステム危機で、それほど大きな経済危機には発展しなかったという印象残るのも、日本がバブル経済へと突入していった前夜だったからかもしれません。
それでも、金利を関数として多くの派生商品が出現したこの頃、金融危機の全貌が予測し難いものとなる時代の始まりでした。【背景】
アジア経済圏の成長期待が投資資金を世界中から呼び込み、多くの現地企業や金融機関がドル建て資金を借り入れ、経済がバブル化していましたが、その崩壊過程で通貨の信頼が揺らぎ、外国資本が一斉に逃げ出しました。
【結果】
タイのバーツが急落し、それが他の東南アジア諸国、インドネシア、マレーシア、韓国などに波及、これにより各国の為替市場や株式市場が急落して、多くの企業や銀行が破綻しました。
【教訓】
国際通貨基金:IMFが救済策を提供するも、厳しい財政緊縮が求められ、韓国のように反IMFの気運が盛り上がり、混乱に拍車が掛かった国もありました。
外資導入は新興国の資本不足を補うための切り札ですが、適切な外貨準備の重要性と、資本流入の管理が認識され、各国で財政・為替政策の見直しが進みました。
また、国際的には投機資金の管理監督の機運や、IMFの介入とその条件に対する批判が高まったことも指摘できます。日本も、欧米では駄目でもアジアでは何とかる、という根拠の無い思い込みもあり、この時期、アジアへの拠点拡張にしのぎを削りました。
私は、このアジア危機の中で、戦線を拡大したアジア拠点の閉鎖、縮小、売却に関わることになります。
ジャカルタでは暴動に巻き込まれ、マニラでは解雇社員から脅迫され、某国では拠点閉鎖を当局に拒否され、各国の官僚機構の中で申請をたらい回しにされ、酷暑や雑踏の中で七転八倒することになります。
それでも、M&A、すなわち企業売買や企業整理の実務を身に着けることが出来たというのは負け惜しみでしょうか?【背景】
1990年代後半から2000年代初頭にかけて、インターネット関連企業への期待が膨らみ、多くの企業が曖昧な事業モデルで利益も生まないような段階で株価が急騰したものの、過大評価が明らかになるにつれ、バブルが崩壊して行きます。
【結果】
2000年から2002年にかけて、NASDAQ指数は約80%も下落し、多くの企業が倒産しました。
さらに、IT企業の崩壊が実体経済に波及し、アメリカ経済の成長は鈍化しました。【教訓】
投資に際して、企業価値の冷静な評価の必要性、言葉を換えれば、将来に対する安易な成長期待ではなく、実際の収益性に基づいた評価が求められました。
また、一つのセクターに過度に依存する投資行動のリスク、分散投資の必要性が再認識されたことも重要です。
『今回は違う:This time is different!』、景気循環や金融政策を外れて極端な上昇相場が続く場合には、投資家の視点にバイアスがかかりやすい点を戒めた相場格言ですが、特に新規の投資テーマが取り上げられる場合には要注意ということでしょう。
『歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。』人類は愚かなものです。【背景】
リスクの高い住宅ローン(サブプライム・ローンSubprime Lending)が大量に証券化され、世界中の投資家が購入しましたが、住宅価格の下落によりこれが焦げ付きました。
さらには、サブプライム・ローンに関わる証券が組み込まれた金融商品までも信用を失い、市場では投げ売りが相次ぎました。
【結果】
米国の大手投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻が引き金となり、高い信用力を持っていたAIG:American International Group, Inc.、ファニーメイ:Fannie Ma、フレディマック:Freddie Macなどが国有化される事態にまで至り、市場は大混乱に陥りました。
それは、世界的な金融危機に繋がり、株式市場の暴落、銀行の倒産、経済の大幅な縮小が生じました。
【教訓】
各国政府や中央銀行は、大規模な財政・金融政策を導入し、金融システムを支援すると同時に、金融機関が高いレバレッジをかけた投資を進めてリスクが増大していた事実を鑑み、金融規制の強化や、ストレス・テストの導入が進みました。
私は当初、海の向こうのお話だとばかり思っておりましたが、その影響が世界に広がるにつれ、日本のバブル時代の過剰融資による破綻劇が思いだされました。
【背景】
リーマン・ショックに際し、多くの欧州諸国が景気対策として財政支出を拡大しましたが、ギリシャ、スペイン、ポルトガルなどで財政赤字と公的債務が急増し、その返済が困難に陥りました。
ギリシャの債務問題の表面化をきっかけとし、欧州全体への信用不安が波及しました。
【結果】
欧州連合(EU)と欧州中央銀行(ECB)、国際通貨基金(IMF)が債務国を救済するための支援策を実施しましたが、ギリシャを中心とした南欧諸国で、失業率が急上昇し、経済が低迷することになりました。
【教訓】
欧州単一通貨(ユーロ)の維持には、財政規律の統一と厳格な監視体制が必要であることが明らかになり、危機後、欧州では財政協定を導入し、加盟国に財政赤字の上限を設けるなどの再発防止策が取られました。
ドイツという基幹国の存在と、そのリーダー、メルケル首相の努力によりギリシャなどへの支援が実現して危機を乗り切ったことは金融市場の安定にも喜ばしい事でした。
しかしながら、異なる経済状況の国々を通貨で統一するユーロが内包する根本的な課題と、結果的に欧州ではドイツの一人勝ちのような状況を生み出してしまったことは、いまも引きずることになります。
【背景】
新型コロナ・ウイルスのパンデミックにより、世界の経済活動が一時停止し、株式市場が急落しました。
【結果】
世界中でロックダウンが実施され、多くの産業が停止、特に製造業において 工場の停止や輸送中断によりグローバルな供給チェーンが混乱しました。
【教訓】
各国政府は大規模な財政支援や金融緩和を導入し、経済の急激な収縮を防ぎました。
特に製造業においては、世界分業体制の見直しから、グローバル・サプライ・チェーンの再構築や国内回帰などの動きが出ました。
おそらく、多くの人々にとり初めての世界的パンデミックは本当に衝撃的でした。
ただ、私は香港駐在時に重症急性呼吸器症候群:SARSの集団発生に遭遇していたため、少しは冷静にふるまえたと自負しております。
当時の香港で、洪水等の天変地異や火事、さらにはテロに備えて準備してきた事業継続計画:Business Continuity Plan、BCPを、全く予想もしていなかった理由で発動したことは、いまでも強く記憶に残ります。
これまで概観して来た、1980年代以降の金融危機の教訓を総括すると、今後の課題として以下の諸点が挙げられます。
ブラック・マンデーの項でも述べましたが、金利を関数として多くの派生商品が出現したことにより、レバレッジ: Leverage)効果が高まり、巨大化した金融市場の全体図が不透明で予測し難いものとなり、その不安はますます高まっております。
投資家が抱く過剰な楽観やパニックが金融危機を悪化させることが多く、投資家の心理を考慮した市場安定策が関係者の課題となりました。
市場の信頼と安定性を担保するために、自動取引やレバレッジのリスクを管理する規制導入は、市場参加者の心理をも安定させます。
アジア通貨危機やリーマン・ショックのように、経済危機が瞬時に、グローバルに広がる現代では、国際的な協調が不可欠なものです。
政府や中央銀行はもとより、取引所、自主規制機関、民間企業同士でも国際協調が求められるでしょう。
ルールの緩和や不十分な監督が危機を引き起こすことが多く、危機後には規制強化の動きが見られました。
これらの危機の経験を通じ、金融システムは強化されてきましたが、常に新たなリスクが発生するため、金融機関の健全性の維持、自己資本比率や流動性規制など、金融システム全体の安定性を確保する取り組みが行われるように、継続的な監視と規制の見直しが求めらます。
救済策が繰り返し取られることで、金融機関がリスクを取り過ぎる可能性があるため、危機回避とモラル・ハザードのバランスが社会全体で共有されなければなりません。
金融危機の再発を阻む基盤整備は進んでおりますが、どんなきっかけで発生するか不透明な時代でもあります。
過去の事象から経験と教訓を振り返るのも有意義ではないでしょうか。
<参考>
[2024.11.28]
[執筆者プロフィール]
一燈。1980年大手証券会社入社。企業派遣留学として米国でMBA取得。その後、シンガポール・香港駐在を通じアジアビジネスに、 また本社経営企画部門で経営戦略の立案等に関わる。